桜の花が咲く日本の春は、夢のような美しさ。
この世にこんな美しい世界があるのだろうかと思うような景色。
また日本人も桜の花には、特別な愛着があって
全国どこにでも、桜は植樹されていて
短い春のひとときに、夢のようなひとときを楽しむ。
およそ桜の花の期間というのは、代表的なソメイヨシノでは
開花から散るまでの期間は2週間ほど。
日本には、古来から「和歌」というものがある。
現代的な言葉で言えば「短歌」。
「俳句」という言葉をどこかで耳にしたことがあるのではないだろうか。
日本独自のショートポエム。
簡単に説明すると「俳句」は五音、七音、五音の言葉の並びで詩を作る。
その際に「季語」というものがあり、必ず、入れなければいけない。
「短歌」には、そうした約束事はなく、
五音、七音、五音、七音、七音の
言葉の並びだけでよい。
「和歌」というのは「短歌」と「俳句」なども含まれる定型詩の総称と考えてよい。
現代的な作品というよりは、一般的には古典を指すことも多い。
前置きが長くなってしまったが、桜の「和歌」をご紹介したい。
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
在原業平(ありわらのなりひら)
これは「古今和歌集」に収められている歌で、この歌集の成立年代は
西暦905年。1000年以上も前の歌。
意味は、世の中に桜というものがなかったら春はのどかであるだろうに。
日本人は、1000年前から、もうすぐ桜が咲くと思うと、心躍らせ
いつ咲くか、いつ咲くかと待ちわびる。そして花見にでかけてゆく。
桜の花の頃に雨が降れば、花が散ってしまうのではないかと、心配し
散り始めると、短い花の命を惜しむ。どうして日本人は、ここまで
桜を愛するのであろうか。
次にご紹介したいのが、
願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃
西行 作
こちらも 1000年近く前に詠まれた歌。
この花というのは、桜の花のことで、桜の花の木のしたで
如月(きさらぎ)は2月、望月は15日の頃に死にたいという歌である。
この歌は、かなり有名で、それは、こうした歌を残した
西行がまさに、その通りに亡くなっているからだ。
この歌は西行の60代中ごろの作といわれているので、
亡くなる随分前に、詠まれたものだが、当時の文化人には
かなりセンセーショナルな出来事だったようである。
というものがあり、釈迦の誕生を祝う仏教行事がある。
日本では原則として毎年4月8日に行われる。
様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、
その中に桶を置き、甘茶を満たす。
誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で像に甘茶をかけて祝う。
宗派に関係なくどの寺院でも行う。
日本という国は南北に長いので、この日が桜の花の頃とは限らない。
しかし、東京という都市を中心にかんがえると、この地域では
4月8日は、まさに桜の頃である。美しい桜を愛でながら
行われる灌仏会(かんぶつえ)の光景は、とても美しい。
西行は僧であったので、桜の花の頃の仏教行事に、ひときわの
美しさと、桜の花の儚さに、かなり強い思いがあったようだ。
また西行が生きた時代は、人の死も身近であった。
ひさかたの光のどけき春の日に静心(しづごころ)なく花の散るらむ
紀友則 作
こちらも最初の歌と同じように「古今和歌集」に収められている。
意味は、日の光がのどかにさしている春の日に、どうして桜は
あわただしく散ってゆくのであろうか。
そんなにはやく散らないで欲しいという願いのような歌である。
桜の花の命はあまりに短い。その儚さに人は世の「無常」を感じる。
この「無常」という言葉の意味は、仏教の重要な教えのひとつ。
世の中に不変のものはなく、すべてがひとところにとどまらず移り変わっている、
という意味なのだが。この「無常」には、桜の花に代表されるような
四季の変化と、人や生命の生き死にと重ね合わせてることが多い。
いま、この一瞬しかないのだという思い、そして、やがては
桜の花が散るように、すべては消えてなくなるという、
あたりまえのことにたいして、あきらめという感情ではなく、
むしろ、ありのままに受け入れている。変化していくこの世への
悲しみではなく、命の儚さへの愛しさが強いのだ。
そうした日本人の「無常」に対する思いが、もっとも
色濃く現れているのが、桜なのである。ひとときの花の命に
自らの生を重ね合わせ、人は桜の花を見上げている。
しかし古来から、こんなにたくさんの桜があったわけではない。
桜を植えた人として有名なのは佐藤良二さんで
他にも日本には桜の植樹をする人が多くいた。
有名なソメイヨシノはクローンで
人の手から手へ受け継がれ増やされ植えられてきた。
そこには確かに美しい花が咲く情景を夢みる人の想いがあって
現実のものとなった。
わたしも夢をみる。
日本の桜がもっと世界へと広がらないかなと。
それは平和への願いでもある。